マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立を作り出す

以下は2007年の女性学会大会シンポジウムとその後の研究会を受けて別のところで書いたものの再掲です。この時に何が起きていたのかについて資料がないなと思ったので、考察というより、一次資料的な意味で、ここにおいておきます(考察という点では今ならこういうロジック/レトリックは採用しないかなという部分も当然ありますが、それはそのままにしておきます)。

先日都内で開かれた女性学会の公開研究会「07年大会シンポをうけておもうこと」。シンポジウムは「バックラッシュをクィアする」というもので、今更バックラッシュも厭きましたよ、という気分もないわけではないのですけれども、バックラッシュ云々の問題というよりも女性学会の問題としてやはり放置はしたくないなというわけで、出かけて参りました((ますます興味ないや、という方もいらっしゃるでしょうけれども))。しかし、参加者みんなで不思議がっていたのですが、驚くほど広報されませんでした、この研究会。某フェミ系MLなどにも広報されたんだっけ?されてないんじゃない?くらいの勢いで。もしかしてそこになにか陰(以下省略)。

さて。

07年大会シンポジウム「バックラッシュをクィアする」について、わたくし自身はアンビバレントな感情を持っている。当日報告にはとても興味深いものもあって、たとえば「フォビア(嫌悪、恐怖の感情)」の表現に焦点をしぼって幾つかのバックラッシュ側の言説を分析なさったクレア・マリィ氏と、「性教育への影響」に焦点をしぼっての分析をなさった風間孝氏、両氏が期せずして(だと思うけれども)、それぞれのケースにおいて「ナショナルなもの」がいかに参照されていくのかをあぶり出す結果になったことなどは、わたくしには(意外性のある結果だというわけではないにせよ)やはりどこかでされておくべき、重要な作業だったろうと思えた。反面、テーマの設定の仕方、当日の状況、さらにはシンポジウム翌日の公開ワークショップでの出来事((これはわたくしは参加できなかったので他の方に教えていただいた限りでしか様子はわからない))など、このシンポジウムにいろいろと問題があることも、当日からすでにはっきりと認識されていた。

で、厳密にどういう経緯があったのか、いろいろと耳にする話がことごとく食い違うので良くわからないのだけれども、とにかく、幹事会主催でシンポジウムを受けて今後の課題を探るべく研究会を開く事になった、らしい。「らしい」と言うのは、そもそも今回の研究会の課題が良くわからないので、あくまでもわたくしの推測なのだけれど。

発題は4人で、五十音順に「イダ→小澤→清水→堀江(敬称略)」とする予定が、小澤氏が少し遅れていらしたために最後にまわって頂く事になった。とりあえず、シポジウムに関係するところだけをまとめておくと、以下の通り。

イダ:性の多様性を理解して、二元性を超えていくことが重要。自由を好み、アナーキーなところのある自分としては、広義のトランスジェンダー(=改革方向としてのシングル単位)という認識でいるし((その意味で、ケート・ボーンスタインの立場と近い、との説明があった))そのような旗のもとに広く緩やかに団結していくことが大事だと考える。対立を煽り、相手を見くびることなく、批判しあうことことなく共通の基盤をさぐって連帯すべき。

清水:今回のシンポジウムで明らかになったのは、フェミニズムとは根本的にストレートなものであり、その点において取り組むべき課題の優先順位は究極的には自明、との前提。この前提は、まさにその前提それ自身への批判を、あらかじめ「フェミニズムの正当な内部/本体」には属さないものとして封じ込める、同時に、「フェイニズムの外部に存在する敵」をあらたに作り出してしまう。

堀江:今回のシンポジウムをめぐって女性学会の批判に対する脆弱性がまたしても明らかになったことに着目し、その脆弱性への対処をするべき((そもそも以前の大会でも、女性学会の批判への脆弱さ、自らの内部にある権力構造への無自覚などが指摘されており、それを今まで受け止め損ねてきたという事実を考えなくてはいけない))。さらに、シンポジウム当日において、報告者の報告テーマよりも報告者の属性(アイデンティティ)が次第に焦点化されていくような話の流れがあり、そのようにして「マイノリティ」を呼び出した上でマイノリティを沈黙させる構造が繰り返されている。

小澤:シンポジウム後に話を聞いた「当事者」の意見紹介(「取り扱い注意」とのことなので、ここでは掲載しません)。

その後いくらかディスカッションはあるにはあったものの、特に新しい展開があったわけではなく、基本的にはすれ違いが多かったように感じられ、それは残念だった。もちろん、批判がくるのだろうと予期しつつ、公開でこういう研究会を開催したことは間違いなく一歩前進ではあると思うし、そのためのとりまとめをして下さった幹事の方々、会場を用意して下さった幹事の方々には、御礼を申し上げておきたい。

幾つか、気になったことをランダムに。

#ディスカッション中に指摘があったことだけれども、「クィア」の使用法がとにかくみんなばらばらで(わぁあそれはそれでクィアだわ)、そのために議論がすれ違うこともあるように思う。とりわけ、クィアをアイデンティティ用語として使うのかそうでないのか、というあたりで。かといって定義を統一するのはそれこそ本気でクィアという概念を損なうものだし。いちいち言っていくしかないのだろうけれども、面倒くさいことは面倒です<こら。

#その場で提出された批判に対して、幹事の井上氏が一人で火をかぶって応えていらしたけれども、幹事会の他のメンバーは「そもそも反対だったのに押し切られた人」なのか、「押し切ったけれども黙っている人」なのか、「こんなんどうでもいいじゃん、と思っている人」なのか。おそらく最後のタイプが多い気がいたします(笑)。

#不要な対立と有用な対立とを分けるのは誰なのかなあ、というところを全く考え直さずに、不要な対立を避けましょう、と呼びかけるのは、わたくしにはやっぱり生産的なこととは思えない。というかむしろ暴力的では。とちょっと言ってみたいです。

#議論の途中で「またそうやってあなたは対立を煽る。やめて下さい」とのご批判を受けたのですけれども。え~と、わたくしフェミニズム帝国拡大主義というご批判なら承っても仕方ないとは思うくらいで、どう考えても日常的に「対立を煽って」はいないと思うます。というか、この時はある特定の発言がおかしいのでは、と指摘したのであって、一つの発言への批判が対立を煽ることになる(おそらくフェミニズムとクィアとの対立、ということです。って何それ)、という発想自体がちょっとおかしいです。その特定の発言がフェミニズムを代表するわけでもないでしょうに。


(以下、当日の私の報告です。すっごい長いです。あと、部分的に修正あります。筋立ても手法もストレート過ぎて自分でも退屈だな~とは思いますが、まあ、口頭発表なので(と、逃げ)。)

今年のシンポジウムを受けて批判的問題提起をするようにとのことですけれど、年次大会シンポジウムを受けてこのような会が催されるというのは、比較的異例なのではないかと思います。もちろん、異例な事自体はかまわないのですが、何のためにその異例な会をしようとするのか、その目的については、これまた比較的曖昧な状態なのではないかとも思います。

この研究会が何を目的としているのか。それは私が決めることではありません。ただし、この研究会の目的であってはならないもの、この研究会が結果として担うべきではない役割、それははっきりしています。
この研究会は、ある種のガス抜きの場としての役割を期待されるべきではありません。この研究会は、「とにかく話は聞いた」というアリバイとしての機能を期待されるべきではありません。つまり、この研究会は、女性学会の歴史におけるもう一つのtoken queer eventになってはならないのです。「バックラッシュをクィアする」と名付けられた今年のシンポジウムが、そうであってはならなかったように。

もちろん、「そうであってはならなかったように」というのは、裏をかえせば、今年のシンポジウムは危険なほどそこに近づいていた、ということです。女性学会もクィアをやってみたよ。ゲイもレズビアンもいるよ。トランスも呼んだよ。女性とクィアは、同じ敵に直面しているんだから、共闘もできるね。ほら、クィアな人もそう言っているでしょ。
冗談じゃない。このシンポジウム企画を幹事会に持ち込んだ発案者の一人として、私は、そう思っていました。まさにその構図こそ、私たちが批判したかったものであり、シンポジウムに向けての研究会で繰り返し指摘されたものであり、個々のシンポジストの発表においては、耳を傾ければそれに対する批判が聞き取れたものでもあります。そしてそれにもかかわらず、かなりの度合いにおいて、その構造はそのまま持ち越されているように、私は感じます。
シンポジウム企画を提出した後、企画の意図が少しずつずらされ、批判が少しずつ封じ込められていく様子を、私は苦々しい思いで眺めていました。ですから、今日お話したいのは、シンポジウムの発表それ自体や、当日の個々の発言についてではありません。そうではなくて、シンポジウム当日にいたるまでの事にしぼって、今日はお話しようと思います。

まず、私個人がそもそもどのような意図と期待をもってシンポジウムの企画案を提出したのか、それをご説明します。
その上で、当初のその企画案が、どのような方向、どのような理由で、変形され、ずらされていったのか。現時点でわかっている範囲で、それを確認したいと思います。
それを通じて私が指摘したいのは、第一に、批判の対象となるはずだったまさにその構造、そのロジックが、批判を封じ込めるにあたってふたたび採用され、再確認されたという事であり、第二に、そのロジックこそ、それ自身が「回避したい」と明言しているまさにその事態を引き起こしているものだ、という事です。

バックラッシュへの対抗言説が最初に気になり始めたのは、いわゆる「ジェンダーフリー」の定義が非常に曖昧であるらしいということを知ったときです。ふと気がつくと「ジェンダーフリー」という言葉が流行しているらしい。その時、私はまったく疑うことなく、「ジェンダーフリー」というのは、<生物学的>性差を含め、男女の性差といわれるものそのものに疑問や批判を投じる態度なのだろうと考えました。もちろん厳密に言えばジェンダーのない(ジェンダーフリーな)状態を目指すことと、既存のジェンダー制度に疑問を投げかけることとは違うのですが、まあそういう方向なのだろう、と。
ですから、たとえば「ジェンダーフリーというのは男女の性差までも否定する過激なフェミニスト思想だ」というような、いわゆるバックラッシュ言説を目にしても、それが大きく的を外したものだとは考えなかったのです。いやー日本の保守派も意外に問題点がわかっているわねえ、くらいに思っていました。

ところが、よく良く聞いてみると、どうやらジェンダーフリーというのは「男女の性差は否定しない」ものであるらしい。なーんだそうなのか、とちょっとがっかりしたのですけれども、しばらくすると、それこそがジェンダーフリーの正しい理解であり、「性差を否定するというのはバックラッシュ側のいいがかり」である、ひどいものになると、「男らしさ、女らしさを否定するわけではないが、その押し付けに反対する」ことがジェンダーフリーなのだ(03年の女性学会幹事会有志による、『Q&A男女共同参画をめぐる現在の論点』においても、これと非常に類似した表現が確認できる)、さらには、「男女同室着替えとかユニセックストイレなんてトンデモ言説と一緒にするな」というような表現までもが、たとえばフェミニズム系のMLやサイトなどで、頻繁に見られるようになっていきました。
同時に、「ジェンダーフリーなんていう言葉を使うからそんな言われなき批判を受けるのだ。男女平等と言えばそれですむ話だろう」という表現も、少しずつ聞こえるようになってきます(04年のジェンダーコロキアム報告における上野千鶴子氏の報告参照)。

私が当時とても不安に思ったのは、「いや、それってトンデモ言説でもないかもしれませんよ」という議論、「性差を否定するとしたら、そこに何か問題があります?」という議論が、殆ど見えなくなっていたことです。
注意していただきたいのですが、ここで私が主張したいのは、フェミニズムは性差を否定すべきだ、ということではありません。そうではなくて、バックラッシュ言説への対抗において、「フェミニズムが既存の性差の形態を否定するかもしれない可能性」というものを、フェミニズム自身が(あるいは一部のフェミニストが)積極的に隠蔽してしまった、ということを指摘したいのです。

シンポジウムの場において風間孝氏やクレア・マリィ氏が実例をあげて説明なさったように、バックラッシュ言説がフェミニズムを攻撃するときに動員したのは、互いに支えあう二つの体制、すなわち、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制ですが、そこから逸脱する存在に対する恐怖や嫌悪でした。
ところが、「フェミニズムは男女平等を目指すのだ」「性差を否定しないのだ」と主張したとき、そのようなフェミニズム側からの対抗言説は、バックラッシュを意識するあまり、それらの恐怖や嫌悪を批判するのではなく、恐怖や嫌悪の対象となることを回避する方向に、向かってしまいました。
つまり、その時のフェミニズム側の対抗言説は、いわゆるバックラッシュのロジックとは違う理由で「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張を、あたかもそれは正当なフェミニズムの主張ではないかのように、扱ったのです。

再び注意していただきたいのですが、私は、そのようなフェミニズム側の対抗言説が、たとえばトランスを、たとえばゲイやレズビアンやバイセクシュアルを切り捨てたことについて、批判しているのではありません。もちろん究極的にはそれをも批判したいのですが、ここで私が言っているのは、直接的にはそういうことでは、ない。

私は、自分をフェミニストだと思っています。
そして、少なくとも私の理解する限りにおいては、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とは、まさしくフェミニズムが批判を向けてきた対象だったはずです。先ほども申し上げたように、その点においては、バックラッシュ言説は大きく間違えてはいなかったはずなのです。だからこそフェミニズムは、トランスのために、あるいはゲイやレズビアンやバイセクシュアルと共闘するために、ではなく、フェミニズム自身のために、その二つの体制から逸脱することへの恐怖や嫌悪そのものに、立ち向かうべきだったのです。
「フェミニズムは性差を否定しない」「男女平等を目指す」というフェミニズム側の主張は、もっとも攻撃されやすい部分を切り離す(あるいは隠蔽する)ことでバックラッシュの攻撃をかわしているように見えながら、その実、フェミニズムにとって根本的に重要な目的を見失いかねないものであるように、そしてその意味で、そもそもの出発点においてバックラッシュの攻撃に屈しているものであるように、私には思えました。

シンポジウムの企画を提案したときに私の念頭にあったのは、そういうことです。
少なくとも私は、クィアな視点からであろうとなかろうと、バックラッシュ言説そのものの分析に興味があったわけではありません。フェミニズムがバックラッシュへの対抗言説を構築するとき、どのようなロジックがどのような理由によって問題となるのか、それを洗い出さないことには、どのようなロジックが望ましいかを考えることも難しくなりますし、フェミニズム自身の可能性をも大きく損なうことになる。私にはそれが気になったのです。

従って、当初の企画案において、批判の対象、あるいは「クィアする」対象とされていたのは、バックラッシュ言説それ自体というよりは、それに応えるフェミニズムの対抗言説でした。
繰り返し申し上げているように、今回のバックラッシュ言説がもっとも露骨な形で攻撃の対象とし、そしてフェミニズム側の対抗言説がもっとも簡単に切り離そうとしたのは、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とを覆す、「クィア」なあり方でした。つまり、そのような存在を、望ましくないもの、切り離すべきものとして扱った点において、フェミニズムの対抗言説はバックラッシュ言説と、無自覚な共犯関係を結んでいたのです。ですから私は、まずそこからフェミニズム側の言説の問題点をもう一度見直すべきだと考えました。

けれども、この企画案には批判が出たようです。
細かい経緯は私にもわかりません。けれども、実際のシンポジウムが最終的にどのような形になったのかを見たときにはっきりわかるのは、フェミニズム側の言説構築に対する批判が著しく薄められ、そのかわりに、フェミニストとクィアとが共同してバックラッシュ言説を批判するという枠組みが採用された、ということです。

シンポジウムに向けた二回の研究会における議論そのほかを総合して考えると、その理由の大きなものとして、バックラッシュの激しい状況にあって、フェミニズムがクィアから攻撃されているような印象、あるいは、そのような攻撃を受ける理由があるような印象を生み出すことは、極力避けなくてはならない、ということがあったように思います。そして同時に、フェミニズムが内部分裂しているような印象も、避けなくてはならなかったようです。

バックラッシュへの対抗言説において、クィアな存在を切り離して、カッコつきのフェミニズムを守ること。シンポジウムにおいて、フェミニズムがクィアから攻撃されている印象を与えたくないと思うこと。フェミニズムが内部分裂している印象を与えたくないと思うこと。そして、クィアとフェミニズムが共闘しているのだと言うメッセージを送ろうとすること。
これらは、一見したところ、必ずしもかみあっていないように思えるかもしれません。
バックラッシュをかわすためにクィアを切り捨てることと、クィアとフェミニズムが共闘しているというメッセージを送ろうとすることとは、矛盾するように見える。フェミニズムの対抗言説に対するクィアな視点からの批判はクィアからのフェミニズムへの攻撃を意味すると考えることと、そのような批判はフェミニズムの内部分裂であると考えることとは、つながらないように見える。

けれども、これらはすべて、既存の一つの前提に基づく体制を承認するところから出たものであり、その前提と、そしてそれに基づく体制とを、再確認し、再強化する役割を果たすものである、と考えるべきです。その前提とは、フェミニズムとは根本的にはストレートなものであり、そしてその点において、フェミニズムが取り組むべき課題の優先順位は、究極的には自明である、というものです。
バックラッシュの攻撃からカッコつきのフェミニズムを守るためにクィアを隠蔽する、あるいは切り捨てる、という戦術を可能にするのは、何か。それは、もっとも攻撃にあいやすいクィアな要素はフェミニズムにとって不可欠な構成要素ではなく、あくまでも「つけたし」であって、だからそれを切り捨てても「フェミニズム」は存続しうるのだ、という発想です。バックラッシュというフェミニズムの「外部」からの攻撃に際して、フェミニズムの「本体」を守るためには、フェミニズムの外側にくっついているものを一時的に切り離すことになったとしても、まあ仕方ない、ということです。
フェミニズムの対抗言説に対するクィアな視点からの批判が、クィアからのフェミニズムへの攻撃を意味するのだと考え、それを回避しようとするとき、そこにあるのも、そもそもクィアな視点からの批判はフェミニズムに「対する」、つまりはフェミニズムの「外からの」攻撃であって、フェミニズムの中からの批判ではない、という前提です。
そこではじめて、クィアとフェミニズムの「共闘」という発想が成立する。自分自身と「共に闘う」ことはできませんから、ここでも、クィアな視点はあくまでも「フェミニズム」とは別物として、その外部に、存在していることになります。その意味では、そもそも「共闘」を唱えた時点でシンポジウムの当初の企画意図は消えてしまったのだと言っても、過言ではありません。

つまり、今回のシンポジウムの企画において批判の対象として想定していたまさにそのロジック、フェミニズムの「本体」はストレートなものであり、クィアな視点はフェミニズムの「外部」に付け足されたものにすぎない、という前提が、批判を封じ込めるにあたってふたたび採用されたと考えざるを得ない。「本体」とみなされるストレートな「フェミニズム」をバックラッシュから守るという、これまた全く同じ理由によって。

もちろん、「フェミニズム」と「クィア」との関係がそんなに単純なものではないことは、明白です。クィアな視点はフェミニズムの「中」にも存在するし、それは、少なくとも一部のフェミニストにとっては、フェミニズムの「本体」を構成する重要な要素なのです。
だからこそ、「フェミニズムの内部分裂という印象を与えるべきではない」という要請が、それと同時に動員されてしまうのです。この要請は、クィアな視点からの批判を「フェミニズムの内部」と認めているわけですから、クィアな視点はフェミニズムの外部に付け足されたものにすぎないという前提とも、クィアがフェミニズムを攻撃するのではなく、両者が共闘するような方向を探るべきであるという要請とも、矛盾しているように見えます。

それにもかかわらず、相矛盾するはずの要請が両立してしまうのはなぜか。それは、要請の中身、あるいは要請の前提ではなく、その効果に注目することで、明らかになります。
「内部分裂は望ましくない」という要請は、もちろんそれ自体においては、「だから分裂せずにすむように、批判に耳を傾け、議論をしていこう」という方向に向かう可能性もあります。けれども、その同じ要請が「だから批判は避けるべきだ」という目的のために持ち出される時、その要請にとって何が正当な「内部」であるのかは、そもそもの最初から決まっている。つまりこの時、「内部分裂は望ましくない」と言う要請は、内部にあったはずの批判的視点を、正当な「内部」ではないものとして名指しなおす効果を持ちます。言葉をかえれば、「内部分裂は望ましくない」という要請がこのような文脈で用いられる時、この要請は、その表向きの表現とは裏腹に、正当な内部と認められるものとそうでないものとに内部を分裂させ、その分裂線にそって新たな「内部」と「外部」とを、作りなおしているのです。

クィアな批判的視点をフェミニズムの「外部」として作り直すこと。それはつまり、バックラッシュへのフェミニズム側対抗言説の前提、フェミニズムは根本的にストレートであってクィアな視点はその外部への付け足しなのであるという前提を、あらためて補強するということです。
フェミニズムがクィアから攻撃されている印象を与えてはならないという要請、あるいは、クィアとフェミニズムの共闘のメッセージを送らなくてはならないという要請も、その意味では、同じ効果を持っていると言えます。そのような要請そのものが、クィアな視点をフェミニズムの「外部」として作り上げているのです。

それが、私が今日指摘したいと思っていた、第二の点です。
そもそもの企画段階においては、フェミニズム側の対抗言説に対する批判がフェミニズムの内部から提案され、議論と検討とを経て、より望ましい対抗言説の構築に向けての可能性が探られるはずでした。バックラッシュの攻撃に加えてフェミニズムにさらに別方向からの外部攻撃を加えようというものではありませんでしたし、ましてやそのような攻撃を受ける理由があるのだという印象を与えるはずのものでもありませんでした。
私は、フェミニズムは「外部」からの批判を受けるべきではない、あるいは受ける必要がないと主張するつもりはありませんし、フェミニズムがクィア的な視座を常に完全に包摂するものだと主張するつもりもありません。けれども、バックラッシュへの対抗言説をめぐる今回の件については、すでにフェミニズムに存在している問題意識、フェミニズムが経験してきた歴史、フェミニズムの練り上げてきたロジックを通じて、十分に批判も検討も可能であるはずでした。

それにもかかわらず、フェミニズムの言説構築に対する批判を回避したまま「共闘」の身振りだけを打ち出そうとしたという点において、今年のシンポジウム企画に加えられた変更は、まさに「フェミニズムが<外部>から攻撃されるような構図」をつくりあげるものでした。クィアをあらためて自分たちの「外部」として構築しなおしつつ、それと同時に、「フェミニズム」がその外部にある「クィア」と対立し、攻撃される可能性を、回避しようとしたのです。マッチポンプとはまさにこのことです。

もしも、今年のシンポジウムをめぐって「クィアとフェミニズムの対立」のようなものが見て取れた、あるいは今見て取れるとすれば、その「対立」は、この「フェミニズム」の側が作り出したのです。フェミニズムがその「外部」にあるクィアから攻撃されるような構造を作り出し、さらにそのような攻撃を多少なりとも正当化するような構造を作り出したのは、まさしく、クィアな批判的視座を頑なにフェミニズムの「外部」として認識し続け、構築し続けた、この「フェミニズム」のロジックなのです。

以上、今年のシンポジウムについて、問題だと思われる幾つかの点を振り返ってみました。
フェミニズムとは根本的にはストレートなものであり、そしてその点において、フェミニズムが取り組むべき課題の優先順位は、究極的には自明であるという前提が、そのような前提への批判そのものをあらかじめ「フェミニズムの正当な内部」には属さないものとして封じ込めてしまっている。そして同時に、そのような前提が「外敵」を作り出してしまっている。
言い方を少し変えれば、問題は、「外敵」の存在を理由に、「フェミニズムが優先すべき課題が何であり、それをどう達成すべきか」について、内部での立場の違いや意見の不一致を覆い隠そうとしたこと、あるいは、それを意図してはいなかったにせよ、そのような結果を生んでしまったことに、あります。

それでは、どうすれば良いのか。それはこれから話し合われるべきことだと思います。
ただ、とりあえず必要なのは、内部における意見の不一致や違いを認め、批判を批判として受け止めることだというのは、わかっている。つまり、にこやかにお友達を演じるのでもなく、言いたいことを言わせて聞き流すのでもなく、批判を正面から受け止め、必要なら正面から反論すること。それが可能な体制をつくること。
ものすごく単純化してしまえば、今日ここでただ仲良しを確認して終わるのはやめましょうね、というか、最終的にそういう確認に到達しても良いのですけれども、最初からその確認を目標として設定するのはやめましょうね、という、そのあたりから始められないかと、私は思っています。

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延期になりました→ Feminist/Queer Utopias & Dystopias: Alternative Worlds Imagined Through Non-Normative Desires and Bodies

以下のイベントは、COVID19の感染拡大状況を鑑みまして、開催の延期をいたします。開催は2020年の夏を予定していますが、具体的な日時は未定です。

Due to the COVID-19 situation, the following symposium is postponed till the summer 2020.

概要:   

TVドラマや映画など、近年のポピュラー・カルチャーにおいて、クィアなもしくはフェミニズム的な表象に特徴付けられた作品が増えている。興味深いことに、それらの表象は、ユートピアまたはディストピアという、オルタナティブ・ワールドが舞台であることが多い。のみならず、クィアな表象は、ディストピア的絶望ではなく、どちらかというとユートピア的希望の在り処として提示されがちであるのに対し、フェミニズム的な表象は、ディストピア的な設定が多い。前者に関しては『センス8』(2015-2018)や『ブラック・ミラー』(2011-)の「サン・ジュニペロ」(2016)と「ストライキング・ヴァイパーズ」というエピソード(2019)が、後者に関しては『侍女の物語』(2017-)が例として挙げられよう。

この二つの傾向は、私たちにいくつか重要な問題を突きつける。まず、クィアなものをユートピア的に表象することは、市場を意識したイメージ戦略あるいはポリティカル・コレクトネスの結果にすぎないのか?それとも、クィアなもののユートピア的な表象は、オルタナティヴな、より良い未来を想像するための新たな方法を私たちに提供するのか?そうであれば、どのように?そして、誰のために?また、フェミニスト・ディストピアの表象は、現在におけるインターセクショナルなフェミニスト政治とどのように対応しているのか?これらの論点を念頭に置きながら、このシンポジウムでは、近年のポピュラー・フィクションにおいて、クィアなもしくはフェミニズム的な視点がいかにユートピアまたはディストピア的想像力と交差し、重なり合うかについて考察する。

Recent years have been witnessing an increase in the number of popular cultural works that present themselves as feminist or queer. Curiously enough, many of these works are set in alternative utopian or dystopian worlds. Even more interesting is the fact that queer and feminist representations in these genres seem to be respectively coagulating around two separate poles: queer representations tend to be the locus of utopian hope, rather than dystopian despair, as seen for instance in Sense8 (2015-2018), or the two Black Mirror episodes “San Junipero” (2016) and “Striking Viper” (2019); while representations of feminist issues within alternative worlds tend to be set in dystopian rather than utopian frameworks, with The Handmaid’s Tale (2017-) being a prominent example. 

This raises some important questions: Is the inclusion of queer issues as utopian horizon merely the result of market-oriented image politics and political correctness? Or do these utopian representations of queer issues offer us new ways of imagining alternative, better futures? If so, how? And for whom? How do dystopian representations of feminist issues correspond to the present reality of intersectional feminist politics? Addressing these questions, this symposium aims to critically reflect on how feminist/queer perspectives intersect with utopian and dystopian imagination in recent works of popular fiction.

キーノート講演:   ニシャント・シャハーニ(ワシントン州立大学)

登壇者:       

生駒夏美(国際基督教大学)         

中村麻美(立教大学)

ヴューラー・シュテファン(東京大学)             

清水晶子(東京大学)

スケジュール:           

13:00-13:10                開会挨拶 (中村麻美、ヴューラー・シュテファン)

13:10-14:30            基調講演

ニシャント・シャハーニ 「もう一つの世界を感知する−ディストピア的現在を通しての唯物論的ユートピア批判」

14:30-14:45                休憩

14:45-16:00                研究報告

生駒夏美 「『フランケンシュタイン』から『侍女の物語』まで——再生産とフェミニスト・ディストピア」

中村麻美 「『ブラックミラー』「サン・ジュニペロ」(2016年)におけるクィア・ノスタルジア」

ヴューラー・シュテファン「ジェンダー化された身体の超越?笙野頼子『ウラミズモ奴隷選挙』のユートピア的地平線を問い直す」

16:00-16:20                休憩

16:20-17:30                ラウンド・テーブル

言語:                         英語(同時通訳あり)

日時:     2020年 3月 8日(日曜日)13:00-17:30

会場:                    国際基督教大学、ダイアログハウス2F、国際会議室

主催:                   

東京大学大学院総合文化研究科 表象文化論研究室 (科研費研究番号 No. 19H01205; No. 16K13134)

国際基督教大学ジェンダー研究センター

企画:                中村麻美、ヴューラー・シュテファン

ポスターPDF版はこちら→ https://bit.ly/2wkjXvm

English Poster (PDF) → https://bit.ly/2OX7SCL

関連セミナー

シンポジウム前日3/7(土曜日)午後に、シンポジウムの基調講演者であるシャハーニ氏にご著書の_Queer Retrosexualities: The Politics of Reparative Return_ について、クローズドのセミナーでお話いただきます(会場は駒場です)。

こちらはシンポジウムテーマであるユートピア/ディストピアに直接関連するというよりは、クィアな過去とどのように関わっていくのかを論じるものになります。使用言語は英語のみ、同時通訳は入りません。

こちらは参加者を確定したセミナー形式ですので、参加ご希望の方は私までご連絡ください。

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保護中: 6/14,6/21 Affect

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クィア・リーディング連続公開研究会(第12回)

 

2017年2月19日(日)14:30~17:30 

場所:中央大学駿河台記念館 580号室

報告者:石川千暁

タイトル: 「一緒に女の子」であることの親密—ネラ・ラーセン『パッシング』からトニ・モリスン『スーラ』へ

概要:「私たちは一緒に女の子だった (We was girls together)」。初のアフリカ系アメリカ人ノーベル賞作家トニ・モリスンToni Morrisonの『スーラ』Sula (1973年)の結末において、今は亡き親友スーラを想って幼馴染ネルNelはそう呟く。二人の親密性をめぐっては、レズビアン的であるとも、逆に同性愛とは異なるとも評されてきたが、そうした相反する見解は、『スーラ』に書き込まれている流動的な—クィアな—性の表現を期せずして言い当てているだろう。
同じくアフリカ系でハーレム・ルネサンス期の作家であるネラ・ラーセンNella Larsenの『パッシング』Passing (1929年)もまた、女同士の親密な関係を描いている。スーラを弔うネルの呟きに、ネラが描き得なかった類のセンティメントが込められていると考えることはできないだろうか。本発表は、女同士のエロティックな欲望の抑圧を描いたラーセンのテクストのクィアな書き換えとして『スーラ』を読む試みである。

コア・テクスト
Larsen, Nella. Passing. 1929. New York: Penguin, 2003.(上野達郎訳『白い黒人』春風社、2006年)
Morrison, Toni. Sula. 1973. New York: Vintage, 2004.(大社淑子訳『スーラ』早川文庫、2009年)

主催: 中央大学人文科学研究所「性と文化」研究チーム

☆「性と文化」研究チームは、2007年に発足以来、ジェンダー/セクシュアリティ論やクィア理論について、文学研究・表象分析の領域で研究活動を続けています。2013年3月には、研究成果をまとめた論集『愛の技法—クィア・リーディングとは何か』(中央大学出版部)を出版しました。2013年秋より、関心を共有する研究者(大学院生含む)を対象に、具体的なテクストを取り上げて「読みの実践」を検討する連続研究会を開催しています。参加者には事前にコア・テクストをお知らせし、当日報告者が紹介する読解に対して自由に意見を出し合い議論できる、ワークショップ型の集まりです。

会場の都合上、出来るだけ事前に参加希望をメールでお知らせください。ご連絡およびお問い合わせは<queer.reading(あっと)gmail.com>まで。

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